フレデリック・デ・ハウトマン(1571年-1627年10月21日)は、オランダの探検家として知られる人物です。彼は東インドへの航海の先駆者コルネリス・デ・ハウトマンの兄であり、航海士ペーテル・ケイセルとともに南半球の星座観測に大きな貢献を果たしました。
参考)フレデリック・デ・ハウトマン - Wikipedia
1595年から1597年にかけて、オランダから東インド諸島(現在のインドネシア)への最初の航海に参加したハウトマンは、この遠征中にケイセルの天文観測を手伝いました。当時のオランダは、ポルトガルとスペインが独占していた東洋貿易への進出を目指しており、この航海は歴史的な意義を持つものでした。
その後の航海で、ハウトマンは北スマトラのアチェ王国のスルタンによって投獄されるという困難に直面します。しかし、彼はこの2年間の投獄期間を無駄にすることなく、マレー語の勉強と天文観測を継続しました。1601年8月25日、オランダ総督マウリッツ公からの手紙を受け取った国王によって解放されたハウトマンは、1603年にオランダへ帰国します。
参考)Biography - Frederik de Houtma…
ハウトマンとケイセルが残した最も重要な功績は、南半球の星座観測です。当時、北半球からは見ることのできない南天の星々は、ヨーロッパの天文学者にとってほとんど未知の領域でした。
ケイセルは地図製作者ペトルス・プランシウスから数学と天文学を学んでおり、プランシウスはオランダの東インド遠征を推進する立場から、当時空白となっていた南天の星図作成をケイセルに指導していました。1596年にジャワ島バンタン到着後、艦隊は補給品を探すためスンダ海峡を横断しましたが、この航海中にケイセルは死亡したと考えられています。
1597年8月14日、ハウトマンを含む81人の生存者がテセル島に帰還し、ケイセルの貴重な観測記録はハウトマンからプランシウスへと渡されました。ハウトマンは帰国後、天文観測の結果を『マレー語とマダガスカル語の辞書と文法書』に付記して1603年に出版しました。
この観測記録には約200個の新しい星が含まれており、そのうち約半数は12の新星座に分類され、残りの半数はケンタウルス座やおおかみ座といった既存の星座に追加されました。
参考)Redirecting...
ケイセルとハウトマンの観測記録をもとに、プランシウスは1598年に天球儀を製作し、現代にも引き継がれる南天の12の新しい星座を発表しました。これらの星座の多くは、16世紀の航海者たちが南半球で遭遇した新しい動物や事物に因んで命名されています。
具体的には、きょしちょう座(オオハシ)、くじゃく座、つる座、カメレオン座、とびうお座、みずへび座、ほうおう座、はえ座、きょしちょう座、インディアン座、みなみのさんかく座などが含まれます。これらの星座は、エキゾチックな南半球の自然を反映した命名となっています。
参考)きょしちょう座 - 新興出版社啓林館・文研出版 万博プロジェ…
1603年、ドイツの法律家で天文学者のヨハン・バイエルは、全天恒星図『ウラノメトリア』(バイエル星図)を出版しました。バイエルはこの星図の製作にあたって、南天の星座をプランシウスらの天球儀から引用し、「ペトルス・テオドリの星図から」と明記しました。しかし、プランシウスの製作物があまり知られていなかったため、南天の星座を考案したのがバイエルであると長らく誤解されてきました。
参考)ウラノメトリア - Wikipedia
『ウラノメトリア』は世界で初めての全天星図として画期的な業績であり、ここに掲載されたことで、ケイセルとハウトマンの12星座は広く天文学界に知られることとなりました。
参考)バイエル符号
1619年、ハウトマンは東インド会社の船ドルトレヒト号に乗船し、新たな航海に出ます。この航海で、彼はアムステルダム号に乗船したヤーコプ・デーデルとともに、オーストラリア西海岸のデーデルスラント(現在のパース周辺)の沿岸に到達しました。
パースはオーストラリア西部の主要都市で、ウァジァク・ヌーンガー族の人々が45,000年以上にわたって暮らしてきた土地です。ハウトマンの到達は、ヨーロッパ人によるこの地域の探検史において重要な一歩となりました。
参考)オーストラリア、パース旅行ガイド - オーストラリア政府観光…
ジェラルトンの西方約80キロの沖に位置する島々と珊瑚礁の連なりは、彼にちなんで「ハウトマン・アブローリョス」(Houtman Abrolhos)と名付けられました。「アブローリョス」は当時のポルトガル語で「沖合の岩礁」を意味し、俗称として「アブローリョス諸島」とも呼ばれています。この地名は、ハウトマンの探検家としての功績を今日まで伝える貴重な証となっています。
オーストラリア西海岸の探検は、後のオランダ東インド会社の活動拡大における重要な足がかりとなり、ハウトマンは探検家として歴史にその名を刻みました。
ハウトマンの生涯で特筆すべき点は、逆境を学問の機会に変えた彼の姿勢です。1599年9月11日から1601年8月25日まで、北スマトラのアチェ王国のスルタンによって投獄されていた約2年間、ハウトマンは単に時を待つのではなく、積極的にマレー語の勉強と天文観測を行いました。
この投獄期間中の研究成果は、1603年に出版された『マレー語とマダガスカル語の辞書と文法書』(Spraeck ende woordboeck inde Maleysche ende Madagaskarsche talen)として結実しました。この辞書は、ヨーロッパ人によるマレー語研究の初期の重要な文献の一つとなり、東南アジアとヨーロッパの言語的・文化的交流に貢献しました。
興味深いことに、ハウトマンは辞書の出版に際して、天文観測の結果も付記しています。これは彼が投獄中も星空を観察し続け、科学的探究心を失わなかったことを示しています。限られた環境下でも学問を追求する姿勢は、ルネサンス期の学者や探検家に共通する特質であり、ハウトマンもその例外ではありませんでした。
マレー語は当時、東南アジアの交易言語として広く使用されており、オランダ東インド会社の商人や船員にとって必須の言語でした。ハウトマンの辞書は、後続の航海者や商人たちに実用的な価値を提供し、オランダの東洋進出を言語面から支えることとなりました。
参考)世界初の株式会社「オランダ東インド会社」|akinii8
フレデリック・デ・ハウトマンとペーテル・ケイセルが観測した南天の星座は、現代の天文学においても変わらず使用されています。国際天文学連合(IAU)が定めた88星座のうち、12星座が彼らの観測記録に由来するものであり、これは天文学史における不朽の功績といえるでしょう。
南天の星座は北半球に位置する日本からはほとんど見ることができませんが、沖縄などの南部地域では一部を観測することが可能です。特に、みなみじゅうじ座(サザンクロス)は南半球を代表する星座として広く知られ、オーストラリアやニュージーランドなどの国旗にも描かれています。
参考)星座の一覧 - Wikipedia
ハウトマンらが観測した星座には、極楽鳥、カメレオン、オオハシ、トビウオなど、南半球特有の動物が多く含まれています。これらの星座名は、16世紀の探検時代にヨーロッパ人が南半球で目にした驚きと発見の感動を今に伝えています。天空に動物たちの姿を見出すという行為は、古代から人類が続けてきた営みですが、ハウトマンらはそれを南半球という新天地で実践したのです。
また、彼らの観測記録の正確性は、現代の天文学者によって検証されています。現代の精密な星表であるヒッパルコス星表との比較研究では、ハウトマンの星表は当時の技術水準を考慮すると驚くほど正確であることが確認されています。これは、彼が投獄中も含めて、いかに真摯に天文観測に取り組んでいたかを物語っています。
プランシウスとホンディウスが製作した1598年の天球儀は、アルゴ座を『アルマゲスト』の記述から南東に拡張するなど、南天の星空の理解を大きく前進させました。この天球儀にはノアの方舟を想起させる意匠も凝らされており、キリスト教的世界観と新しい天文学的発見を融合させる試みも見られます。
現代の天文ファンや研究者が南半球の星空を観察する際、彼らは知らず知らずのうちにハウトマンとケイセルの遺産を受け継いでいるのです。400年以上前の探検家が残した観測記録が、今なお世界中で使用され続けているという事実は、科学的探究の普遍性と界中で使用され続けているという事実は、科学的探究の普遍性と永続性を示す素晴らしい例といえるでしょう。
参考)https://www.mdpi.com/2218-1997/10/3/140/pdf?version=1710324369