クラウディオス・プトレマイオスは2世紀にローマ帝国時代のエジプト・アレクサンドリアで活躍した天文学者、地理学者、数学者です。彼が著した『アルマゲスト』は、原典のギリシア語では「マテーマティケー・スュンタクスィス(数学的な論文)」あるいは「メガレー・スュンタクスィス・テース・アストロノミアース(天文学の大論文)」と呼ばれていました。「アルマゲスト」という名称は後にアラビア人がこの書を尊敬して「偉大なる書(al-majisti)」と呼んだことに由来します。
参考)アルマゲスト - Wikipedia
プトレマイオスは紀元147年から148年にエジプトのカノープスに自らの天文学理論を記した碑を建立しており、この碑文に書かれている理論が『アルマゲスト』よりも以前の形式であることが1980年代に判明しました。このことから『アルマゲスト』が完成したのは紀元150年頃より後と推定されています。プトレマイオスの業績は天文学だけでなく、地理学では世界の約8000地点の緯度経度を示した『ゲオグラフィア(地理学)』を著し、数学ではトレミーの定理を発表するなど、多岐にわたります。
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この天文学書は全13巻から構成され、宇宙論の概要、弦の長さの表、黄道傾斜の測定、球面三角法、天体の日周運動、太陽と月の運動、惑星の運動、恒星カタログなど、古代天文学の知識を網羅的に収録しています。プトレマイオスの理論は当時の観測誤差の範囲内で主要な天文現象を精度よく説明することができ、約1400年にわたり天文学の主流理論として君臨しました。
参考)クラウディオス・プトレマイオス - Wikipedia
『アルマゲスト』の中核をなすのは天動説に基づく天体運動の理論体系です。プトレマイオスは地球を宇宙の中心に置き、円運動の組み合わせで天体の運動を説明する理論を作り上げました。この理論では、地球中心の等速円運動を組み合わせて惑星の運行を定性的かつ定量的に説明することを目指しました。
参考)プトレマイオスとは何をした人?天動説を確立した天文学者
具体的な仕組みとして、プトレマイオスは従円と周転円、離心円、エカント、クランク機構、軌道面の振動といった技巧的な数学的装置を導入しました。周転円モデルでは、惑星の軌道は導円上を回る小円(周転円)として表現されます。太陽の軌道については離心円モデルも提案され、複数の幾何学的モデルを組み合わせることで観測データとの整合性を高めました。
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この体系は古代ギリシアのヒッパルコスやペルガのアポロニウスの天文学研究の成果を集大成したものであり、『アルマゲスト』は現代において古代ギリシアの天文学史、数学史の重要な史料となっています。プトレマイオスはまず太陽の運行を定め、太陽を基準に月の運行を定め、その後恒星の位置を太陽と月を基準に定めるという段階的な理論構築を行いました。惑星については運動を黄経と黄緯に分けて考え、前者を説明する理論を作った後に後者を説明する仕組みを付け加えるという手法を採用しました。
『アルマゲスト』は古代ギリシアで書かれた後、イスラム世界を経て西洋へと伝わる長い翻訳の歴史を持ちます。9世紀頃にアラビア語に翻訳され、8世紀末が最初とされ、その後イブン・ユースフ、イスハーク・ブン・フナイン、サービト・ブン・クッラらによる翻訳版が現れました。アラビア語訳の『アルマゲスト』はバグダード天文台での権威書となり、イスラム天文学の発展に大きく寄与しました。
参考)アルマゲスト(あるまげすと)とは? 意味や使い方 - コトバ…
ティムール王朝のウルグ・ベクは1420年にサマルカンドに天文台を建設し、そこでの観測成果を1437年に天文表としてまとめましたが、この研究も『アルマゲスト』の影響下にありました。イスラム世界の学者イブン・ハイサムは『アルマゲスト』の内容を精密に分析しており、彼がどのようなアラビア語訳版を使用していたかは現代の研究対象となっています。
参考)https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-18K00260/18K00260seika.pdf
12世紀にはアラビア語からラテン語へ転訳され、16世紀まで天動説的宇宙論の典拠となりました。ラテン語訳で数学的内容を正確に伝えたのは、オーストリアの天文学者ゲオルク・ポイルバッハ(プールバッハ)です。こうした翻訳の連鎖により、古代ギリシアの天文学知識は約1000年以上にわたって保存され、発展していきました。
参考)https://eetimes.itmedia.co.jp/ee/articles/1703/28/news022.html
『アルマゲスト』の理解において重要なのは、プトレマイオス以前の天文学者ヒッパルコスとの関係です。ヒッパルコスは紀元前2世紀に活躍した天文学者で、定量的な予測を可能にする新たな幾何学的天文学を作り上げた人物とされ、『アルマゲスト』の体系はその集大成でした。
近年の研究により、ヒッパルコスの星表の写本が発見され、天文学者としてのヒッパルコスの再評価が進んでいます。プトレマイオスの『アルマゲスト』は星表を黄道座標で記していますが、発見されたヒッパルコスの星表は赤道座標で書かれており、両者は異なる座標系を使用していました。このことは、プトレマイオスがヒッパルコスの星表だけでなく、プトレマイオス自身やその他の人物による天体観測の結果をもとに『アルマゲスト』を著したことを示しています。
参考)幻の「ヒッパルコスの星表」の写本を発見!観測精度の高さを再確…
ヒッパルコスの功績については「『アルマゲスト』はヒッパルコスのデータをそのまま丸写ししただけ」という批判的な見方もありましたが、座標系の違いや独自の観測データの存在により、プトレマイオスもまた天文学者として再評価されています。『アルマゲスト』における三角法の萌芽である「弦の表」についても、ヒッパルコスの研究を参照しながらプトレマイオスが発展させたものであり、両者の学問的な継承関係が明らかになっています。
『アルマゲスト』が確立した天動説は、16世紀のコペルニクスによって大きな転換点を迎えます。ニコラウス・コペルニクスは1497年にドメニコ・マリア・デ・ノヴァラの助手として天体観測に従事し、『アルマゲスト』を入念に読み込んだ結果、いくつかの間違いに気付きました。コペルニクスは地動説(太陽中心説)を提唱しましたが、その際も円軌道という古代ギリシアの価値観を保持していました。
参考)地動説 - Wikipedia
プトレマイオスの『アルマゲスト』においても、地動説で天体の動きが説明できることは認めており、一節を割いて経験的な事実も挙げながら丁寧に反論していました。コペルニクスが地動説の創始者とされるのは、『アルマゲスト』を用いて可能なことを全て地動説の理論を用いてできることを具体的に提示して検証を行ったためです。
17世紀のガリレオ・ガリレイはコペルニクスの業績について「太陽中心説を復活させた」と評価し、望遠鏡を用いた観測によってコペルニクスの太陽中心説が正しいことを確信しました。ヨハネス・ケプラーもコペルニクスに弟子入りし、地動説の出版を勧めるなど、『アルマゲスト』の学問的伝統は新しい宇宙観への橋渡しとなりました。プトレマイオスより後世の天文学者は『アルマゲスト』に影響を受け、三角法の改良に努力を重ね、ティコ・ブラーエの時代には三角法が自由に扱えるようになりました。
参考)アルマゲスト (Almagest)
ウィキペディア「アルマゲスト」の項目では、天文学書の構成や成立年代、後世への影響について詳しく解説されています。
プトレマイオスの生涯と功績を解説したページでは、トレミーの定理や三角比表の作成など数学的業績についても触れられています。
京都大学基礎物理学研究所の資料では、コペルニクス、ケプラー、ガリレオといった科学革命期の学者たちと『アルマゲスト』科学革命期の学者たちと『アルマゲスト』との関係が学べます。

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