紀元前221年、500年以上続いた春秋戦国の乱世に終止符を打ち、中国史上初の統一王朝を築き上げたのが秦の始皇帝です 。彼は単に武力で諸国を征服しただけではありませんでした。彼の真の偉大さは、その後の中国の政治体制の礎となる、徹底した中央集権化政策を断行した点にあります 。
それまで各国でバラバラだった制度は、始皇帝の手によって驚くべき速さで統一されていきました。彼の政策は多岐にわたりますが、特に重要なものをいくつか見ていきましょう。
これらの政策は、ブレーンであった法家の思想家、李斯(りし)の補佐のもと、強力に推進されました 。反対意見を一切許さないその強硬な手法は、多くの反発も生みましたが、広大な領土と多様な民族をまとめ上げるという前人未到の事業を成し遂げるためには、必要不可欠な措置だったのかもしれません。始皇帝の築いたシステムは、その後約2000年にわたり続く中国の皇帝支配の原型となったのです 。
秦の統一事業について、より詳細な経緯が解説されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/秦の統一戦争
始皇帝の中国統一事業は、単なる地上の出来事としてだけではなく、天の意志を地上で実現する神聖な行為と位置づけられていました。ここで重要な役割を果たしたのが、古代中国独自の天文学と星座の概念です。
古代中国では、「天帝思想」という考え方が根付いていました 。これは、天が地上世界を支配しており、地上の支配者である皇帝は「天の子」、すなわち天帝からその統治を託された存在であるとする思想です 。そのため、為政者にとって天の動きを正確に把握し、天からのメッセージを読み解くことは、統治の正当性を示す上で極めて重要でした。
西洋の星座がギリシャ神話の神々や英雄をモチーフにしているのに対し、古代中国の星座「星官(せいかん)」は、天上の宮廷や官僚組織、社会制度をそのまま空に写し取ったものでした 。
このように、天上の世界もまた、皇帝を中心とした秩序正しい社会として描かれていたのです。星々の動きや変化は、天上の出来事の予兆であり、それはそのまま地上の政治や社会に反映されると考えられていました。例えば、客星(かくせい、突如現れる明るい星、超新星など)の出現や彗星の飛来は、王朝の交代や大乱の予兆として恐れられたのです。
始皇帝は、この天文学を巧みに利用しました。天下統一という偉業は、まさに天命が秦に下った証拠として喧伝されたことでしょう。彼は天の代理人として地上を治める唯一無二の存在「皇帝」を名乗りますが、その権威の源泉は、天文学的な世界観によって強力に裏付けられていたのです。統一後、始皇帝は天体の運行を観測し、暦を制定する専門の役所を設置しました。これは、天の秩序を地上にもたらすという、皇帝の重要な責務の一つでした。
中国の星座体系について、図解付きで分かりやすく解説されています。
https://stellarscenes.net/Chinese_constellations.htm
始皇帝の中国統一は、単なる軍事力や政治制度の改革だけではなく、当時最高峰の技術力を結集した巨大プロジェクトによって支えられていました。その象徴ともいえるのが、「万里の長城」の建設・連結です。
一般的に、万里の長城は北方の遊牧民族、特に匈奴(きょうど)の侵入を防ぐための防御施設として知られています 。しかし、その目的はそれだけではありませんでした。
建設には、数十万人ともいわれる兵士や農民、そして罪人が動員されたと言われています。過酷な労働条件から、多くの犠牲者を出した悲劇の側面も持ち合わせていますが、その技術的な達成は驚異的です。版築(はんちく)と呼ばれる、土を何層にも突き固めて壁を作る工法が主に用いられ、場所によっては日干しレンガや石も使用されました。
前述の通り、度量衡(どりょうこう)、つまり長さ・重さ・容積の単位の統一も、帝国の基盤を固める上で極めて重要な技術的改革でした 。戦国時代、各国は独自の単位を用いていたため、商業取引や徴税において混乱や不正が絶えませんでした。これを始皇帝は、秦の単位に統一することで解決しました。
この統一事業のために、基準となる分銅(ふんどう)や枡(ます)が全国に配布されました。これらの基準器は、皇帝の権威の象徴として、精巧な装飾が施されたものも作られました。この標準化は、公正な経済活動を保証し、人々の生活を安定させると同時に、中央政府による全国の富の正確な把握を可能にし、国家財政の安定にも繋がったのです。
始皇帝の統一事業を思想面で支えたのが、「法家思想」です。そして、その思想を徹底するために行われたのが、悪名高い「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)」でした。
法家とは、春秋戦国時代に現れた諸子百家の一つで、情や徳による統治ではなく、厳格な法によって国家を治めるべきだと説く思想です。始皇帝に仕えた李斯も、この法家の代表的な人物でした 。
天下統一後、帝国の統治方針を巡って、朝廷内では議論が起こりました。儒学者たちは、周王朝のような封建制に戻るべきだと主張しましたが、丞相の李斯はこれに真っ向から反対します 。
「昔の制度を参考にして現在の政治を批判する者は、民衆を惑わすだけです。このような批判の芽を摘むためには、思想そのものを統制する必要があります。」
この李斯の進言を受け入れ、始皇帝が断行したのが焚書坑儒です。
この政策は、後世の儒学者たちから「文化に対する大破壊」として激しく非難されることになります。しかし、一方で、多様な価値観が乱立する状態から、国家として一つの方向を向かせるためには、このような強硬手段が必要だったという見方もできます。価値基準を統一し、皇帝の命令を絶対的なものとすることで、巨大な帝国を一つにまとめ上げようとしたのです。焚書坑儒は、始皇帝の理想とする中央集権国家を完成させるための、最後の仕上げともいえる過激な思想統制だったのです。
絶対的な権力を手中に収め、永遠に続くかと思われた秦帝国。しかし、その栄華はあまりにも短く、始皇帝の死後、わずか数年で崩壊の道をたどります 。
始皇帝が紀元前210年に巡幸の途上で病死すると、事態は急変します。丞相の李斯と宦官の趙高(ちょうこう)は共謀し、始皇帝の遺言を偽造。本来の皇太子であった扶蘇(ふそ)を自害に追い込み、末子の胡亥(こがい)を二世皇帝として即位させました。しかし、胡亥には国を治める能力はなく、政治の実権は趙高が握ります。
趙高は権力をほしいままにし、自分に逆らう者を次々と粛清。政治は乱れ、民衆への負担はますます増大していきました。万里の長城や阿房宮の建設、そして度重なる遠征。これらの大事業を支えるための重税と過酷な労働に、人々の不満は爆発寸前に達していました。
そして紀元前209年、ついにその不満が火を噴きます。陳勝(ちんしょう)と呉広(ごこう)という二人の農民が、徴兵の集合場所に遅れたことをきっかけに、「どうせ死罪になるなら、国を打ち立てて死んだほうがましだ!」と反乱を起こしたのです。これが「陳勝・呉広の乱」です。この反乱は、瞬く間に全国へ広がり、秦帝国を根底から揺るがす大乱へと発展しました。
陳勝・呉広の乱をきっかけに、かつて秦に滅ぼされた六国の旧王族や有力者たちが次々と立ち上がります。その中で頭角を現したのが、楚の名門将軍の家系である項羽(こうう)と、農民出身ながら人望の厚い劉邦(りゅうほう)でした。
彼らは協力して秦を追い詰め、紀元前206年、ついに首都・咸陽を陥落させ、秦は滅亡します。しかし、共通の敵を失った後、今度は項羽と劉邦が天下の覇権を巡って争うことになります。これが約5年間にわたる「楚漢戦争」です。
| 項羽(西楚の覇王) | 劉邦(後の漢の高祖) | |
|---|---|---|
| 出身 | 楚の名門将軍家 | 農民(沛県の亭長) |
| 性格 | 勇猛果敢だが、気性が激しく独善的 | 寛大で人情味があり、部下の意見をよく聞く |
| 戦術 | 自ら先陣を切る圧倒的な戦闘力 | 張良、蕭何、韓信などの優れた部下を使いこなす組織力 |
当初は、圧倒的な武力を誇る項羽が優勢でしたが、劉邦は優れた家臣たちの力を結集し、巧みな戦略で徐々に項羽を追い詰めていきます。そして紀元前202年、「垓下の戦い」で項羽を破り、ついに勝利を収めました 。
勝利した劉邦は、皇帝の位につき、国号を「漢」と定めました 。こうして、秦の強権的な統治の反省の上に立ち、より柔軟な支配体制を目指す新たな統一王朝、漢が誕生したのです。漢王朝はその後、約400年にわたって続き、中国の文化や社会の基礎を形作っていくことになります。