ギリシャ神話に登場する兄妹、プリクソスとヘレの物語は、テッサリア国の王アタマスとその最初の妃である雲の精霊ネペレの間に生まれた二人の子供たちの悲劇から始まります 。アタマス王は後に人間の女性イノを後妻に迎えますが、このイノこそが、兄妹の運命を大きく狂わせる元凶となるのです 。
イノは自身にも子供が生まれると、邪魔になったプリクソスとヘレを疎ましく思うようになりました 。彼女の嫉妬心は次第に増幅し、ついには恐ろしい計画を実行に移します。その計画とは、国の女性たちをそそのかして畑にまく種麦を火で炙らせ、作物が全く育たないように仕向けるというものでした 。
参考)http://www.astromuseum.jp/seiza/seiza01.html
国中が深刻な飢饉に見舞われると、アタマス王は神の意志を問うためにデルポイへ神託を伺う使者を送ります 。しかし、ここでもイノは先回りをしていました。彼女は使者を買収し、「プリクソス王子を生贄としてゼウス神に捧げなければ、この飢饉は終わらない」という偽りの神託を王に伝えさせたのです 。
参考)https://seiza.imagestyle.biz/sinwa/ohituji.shtml
愛する息子を生贄に捧げなければならないという神託に、アタマス王は深く苦悩します 。しかし、国を救うためには神の命令に従うほかありません。こうして、プリクソスは祭壇へと連れていかれ、まさに命を奪われようとしていたのでした。この一連の出来事は、継母イノの周到で冷酷な策略によるものであり、プリクソスとヘレは絶体絶命の窮地に立たされたのです 。
参考)星座小瓶図鑑No.001|牡羊座(Aries)|アクアマリン…
イノの策略に関するより詳細な記述は、以下の学術的な資料からも確認できます。
継母イノの策略によって絶体絶命の危機に陥ったプリクソスとヘレでしたが、彼らの実母である雲の精霊ネペレが天からこの状況を見ていました 。ネペレは我が子を救うため、神々の使者ヘルメスに助けを求め、ヘルメスはゼウスから預かっていた特別な羊を兄妹のもとへ遣わします 。
この羊はただの羊ではありませんでした。全身が黄金の毛で覆われ、空を飛ぶことができ、さらには人間の言葉を話すこともできたと言われています 。兄妹はこの金色の羊の背中に乗り、故郷テッサリアを後にして、遥か東の国コルキスを目指して飛び立ちました 。
この劇的な救出劇は、おひつじ座の誕生にまつわる最も有名な神話として語り継がれています 。危機一髪で兄妹を救った黄金の羊こそが、春の夜空を飾るおひつじ座のモデルなのです。大神ゼウスは、この羊の功績を称え、天に上げて星座にしたと伝えられています 。
参考)おひつじ座の由来って?ギリシャ神話の「黄金の毛の羊」の話
しかし、おひつじ座の神話には、単なる救出劇では終わらない、もう一つの側面があります。プリクソスが亡命先のコルキスに無事たどり着いた後、この羊はゼウスへの感謝の証として生贄に捧げられたという説もあるのです 。そして、その黄金の毛皮だけが剥がされ、国の宝として大切に保管されることになります 。この「金羊毛」が、後のギリシャ神話最大の冒険譚の一つである「アルゴナウタイの物語」へと繋がっていくのです 。
参考)金羊毛 - Wikipedia
以下のリンクは、おひつじ座の神話について、図解と共に分かりやすく解説しています。
金色の羊の背に乗り、無事に故郷を脱出したプリクソスとヘレでしたが、彼らの逃避行は悲劇的な結末を迎えます 。ヨーロッパとアジアを隔てる海峡を越えようとしていたその時、眼下に広がる荒れ狂う海を見下ろした妹のヘレは、あまりの高さに目がくらみ、羊の背中から滑り落ちてしまったのです 。
兄プリクソスが手を伸ばすもむなしく、ヘレは荒波の中に姿を消してしまいました 。この悲劇が起こった海峡は、彼女の名前にちなんで「ヘレスポントス(ヘレの海)」と呼ばれるようになりました 。現在のダーダネルス海峡がその場所にあたると言われています 。
参考)ギリシャ神話にみる「おひつじ座」の由来
この出来事は、単なる事故としてではなく、神話の中で重要な意味を持つ地名の由来として記憶されることになります。ヘレの死は、プリクソスの物語に深い哀しみの影を落とすと同時に、古代ギリシャの人々が、特定の場所に神話的な意味を与え、後世に伝えていこうとしたことを示しています 。
皮肉なことに、このヘレスポントス海峡は、後のペルシア戦争において、クセルクセス大王がアジアからヨーロッパへ大軍を渡すために船を並べて橋を架けた場所としても歴史に名を残しています 。悲劇の舞台となった海峡が、歴史を大きく動かす戦略上の要衝となったのです。
参考)https://history.zashiki.com/Greco-Persian-War-2.html
| 項目 | 内容 | 関連情報 |
|---|---|---|
| 人物 | ヘレ |
プリクソスの妹 |
| 出来事 | 金色の羊の背から海へ転落死 。 | あまりの高さに目がくらんだため 。 |
| 場所 | ヘレスポントス(現在のダーダネルス海峡) | 彼女の名にちなんで命名された 。 |
| 神話的意味 | 地名の由来となり、悲劇が後世に記憶される 。 | 古代ギリシャ人の世界観を反映している。 |
ヘレの悲劇については、多くの方が解説していますが、こちらのサイトは地理的な情報と絡めて詳しく説明しています。
妹ヘレを失うという悲劇を乗り越え、プリクソスは金色の羊に乗り続け、黒海の東の果てにあるコルキスという国にたどり着きます 。コルキスの王アイエーテースは、亡命してきたプリクソスを温かく迎え入れ、娘のカルキオペーと結婚させました 。プリクソスは、長旅の末にようやく安住の地を見つけたのです。
プリクソスは、自分を救ってくれた金色の羊を大神ゼウスへの感謝の印として生贄に捧げ、その貴重な毛皮をアイエーテース王に献上しました 。この「金羊毛(きんようもう)」は、コルキスの国の宝として、軍神アレスの森にある樫の木に打ち付けられ、決して眠ることのない竜によって守られることになります 。
この金羊毛の存在が、ギリシャ神話の中でも特に有名な「アルゴナウタイの冒険」の引き金となります 。プリクソスの故郷テッサリアでは、彼のいとこにあたるイアソンが、叔父ペリアスから王位を奪還するために、この金羊毛を持ち帰るよう命じられるのです 。
参考)おひつじ座 - Wikipedia
イアソンはギリシャ中からヘラクレスをはじめとする50人もの勇者たちを集め、「アルゴー船」と名付けられた船に乗り込み、遥か彼方のコルキスを目指す壮大な冒険の旅に出発します 。数々の困難を乗り越え、コルキスに到着したイアソンは、王の娘メーデイアの助けを借りて、見事に金羊毛を手に入れ、故郷への帰路につくのです 。プリクソスがもたらした一つの宝物が、次世代の英雄たちの壮大な物語を生み出すきっかけとなったのです。
参考)生まれ変わったら種でした 〜バロメッツで送るスローライフ〜 …
プリクソスの物語は、単なるおひつじ座の由来や英雄譚の前日譚にとどまりません。この神話は、古代ギリシャ社会における「亡命者」の立場と、「神託」が人々の運命に与えた影響の大きさを浮き彫りにしています。
まず、プリクソスは継母の策略によって故郷を追われた「亡命者」です。古代ギリシャにおいて、亡命は非常に過酷な運命でした。しかし、プリクソスは亡命先のコルキスで王アイエーテースに歓待され、王女と結婚し、新たな地位を築くことに成功します 。これは、亡命者が異郷の地で庇護を受け入れられる可能性があったことを示唆しています。客人を手厚くもてなすことは、古代ギリシャの重要な文化的慣習(クセニア)であり、神話の中でもその精神が反映されているのです。
次に、物語の重要な転換点には必ず「神託」が登場します。継母イノは偽りの神託を利用してプリクソスを陥れようとし 、後のイアソンの冒険もまた、王位継承の条件としてデルポイの神託が関わっていました。デルポイのアポロン神殿で下される神託は、個人の運命だけでなく、国家の政策や戦争の行方さえも左右する絶対的な権威を持っていました 。
参考)デルポイ - Wikipedia
例えば、かの有名な悲劇『オイディプス王』では、主人公オイディプスが「父を殺し母を娶る」という神託から逃れようとしますが、皮肉にもその神託を実現させてしまいます 。また、ペルシア戦争の際には、アテナイが「木の壁」が国を守るという難解な神託を受け、これを「三段櫂船の艦隊」と解釈してサラミスの海戦で勝利を収めたという話は有名です 。
参考)アンティゴネーの愛を聞く—ギリシア悲劇のなかの少女のために|…
プリクソスの物語における偽りの神託は、神託そのものの権威がいかに高く、人々がそれに疑いを抱かなかったかを示しています。神の言葉は絶対であり、たとえそれが偽りであったとしても、一度下されれば簡単には覆せないほどの力を持っていたのです。このように、プリクソスの亡命譚は、古代ギリシャ社会の文化的、宗教的背景を理解するための貴重な示唆に富んでいると言えるでしょう。